2009年06月25日

空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊が

陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月、テニアン島、グアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きく、この段階で日本の勝利の可能性は完全に無くなったといってよい。

アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。しかし与えた被害は市民数名の死亡、数ヶ所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、これも戦況の悪化により中止された。学力向上!漢字王国
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独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。

日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況であった。

10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は空母瑞鶴などを米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。

2009年06月10日

昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問

昭和天皇が戦後処理のためマッカーサーを訪問した際に、会談の中で昭和天皇の真摯な対応に感銘を受ける。当時、連合国のソ連と英国は天皇を戦犯リストの筆頭に挙げており、マッカーサーはもし天皇を処刑した場合、日本に軍政を布かなくてはならなくなり、ゲリラ戦が始まる可能性を予見していたため、それに反対し、天皇を丁重に扱うつもりだった。とはいえ天皇が、敗戦国の君主がそうするように戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではないかと不安に思っていたが、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた[10]。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[11]。後にも「あんな誠実な人間は見たことがない」と発言している。

会見写真での夏の略式軍装にノーネクタイというラフな姿勢は、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた[12]。だが、松本健一はリチャード・ニクソンの回想[13]を引用し、マッカーサーの服装とスタイルには一種のダンディズムともいえる独特な性向があり、天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにマシなものであったと指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次大戦中のマッカーサーのスタイルはまさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿である

民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。これは成熟した民主主義をもちながらファシズムに走ったドイツのケースと日本のケースを比較し、新生日本を擁護した文脈であった。しかしながら、“12歳”という部分だけが取り出され、現在に至るまで“日本の未熟さ”について「日本人の精神年齢が12歳程度」と侮辱したかのような解釈を受け続けている。

そもそも、上記「12歳」発言は、1951年5月5日に米上院軍事外交委員会において上院議員R・ロングが行った「日本とドイツの占領の違い」に関する回答として行われたものである。マッカーサーは次のように回答した。
サンバ (ブラジル)
土木工学
ラグビー
早食い・大食い
ボウリング
融資
パルクール
人材派遣
綱引き
株式
宮沢賢治集
みんなの税金
高知の湯めぐり
世界歴史
葬祭マナー
麦茶百科
四季の祭り
秋田の情報
リス情報
アイス工房


科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれとほぼ同年齢である。
しかし、日本人はまだ生徒の時代で、まだ12歳の少年である。
ドイツ人が現代の道徳や国際道義を守るのを怠けたのは、それを意識してやったのであり、国際情勢に関する無知のためではない。ドイツが犯した失敗は、日本人の失敗とは趣を異にするのである。
ドイツ人は、今後も自分がこれと信ずることに向かっていくであろう。日本人はドイツ人とは違う。
前後の文脈を総合すると、ドイツ人は十分に成熟していながら確信犯的に戦争を起こしたが、日本人は未熟であったため戦争という過ちを犯したという趣旨の発言であり、新生日本を擁護する意味合いを含むものであった。しかしながら5月16日にこの発言が日本で報道されると、日本人は未熟であるという否定的意味合いのみが巷間に広まり、このため日本におけるマッカーサー熱は一気に冷却化した。政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」「マッカーサー記念館の建設」はいずれも先送りになり、三共、日本光学、味の素の三社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼ、ニッコール、味の素の三製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。

上記に関連して、戦争放棄を謳った日本国憲法についても、アメリカでは実現不可能な理想を、日本において実現しようという目論見があったと言われる

2009年06月06日

九谷庄三(くたにしょうざ,文化13年(1816年)

九谷庄三(くたにしょうざ,文化13年(1816年)-明治16年(1883年))は、寺井町(現在の能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現在の志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

明治時代に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると 同時に西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ1892年頃から、獅子を始めとする 置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が、石膏で作られるようになり量産化が進んだ。 また、明治維新による失業士族の授産施設として1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。
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飯田屋風 天保の頃、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門が焼いた赤絵のものを赤九谷とも言う。
古九谷風 赤・黄・青(緑)・群青・紫の五色を使った重厚な五彩色の構図が特徴である。
木米風 赤地の上に中国風の人物画が描かれる。
吉田屋風 古九谷風で使われる五色のうち赤色を使わない。青九谷とも言う。

2009年04月23日

四神相応

四神相応(しじんそうおう)は、中国・朝鮮・日本において、天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神に中央に「黄龍」(おうりゅう)、あるいは麒麟を加えたものが「五神」(ごじん) と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や韓国・朝鮮と日本では大きく異なっている。

中国や朝鮮での風水における四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。

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日本の京都においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、標準的な風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に埋め立てられてしまったために、京都の四神相応は破壊されている。なおかって朱雀大路を見通すことのできた船岡山は、玄武とするには小規模である。標準的な風水の観点では、船岡山を玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈している。

現代の日本では次表のような、四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般に流布している。しかし、この対応付けは古来から定まっていたというわけではない。

「四神=山川道澤」説の典拠となっているのは、『作庭記』である。『作庭記』は寝殿造を念頭においた庭園の作り方を述べた書物であり、理想の庭園の姿として「四神=山川道澤」説を記述する。そして四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。

現在の日本で四神を「山川道澤」に対応させる解釈が一般的となったのは、平安京をモデルとして、青龍=鴨川、白虎=山陰道、朱雀=巨椋池(おぐらいけ)、玄武=船岡山の対応付けが比較的うまく行ったと考えられるようになってからである。

しかし『作庭記』自体には平安京についての言及はなく、ましてや山川道澤の具体的地名などはまったく記されていない。『作庭記』はその内容から平安時代末期の作とされており、「四神=山川道澤」説は平安時代末期までしか遡り得ないのが現状である。そのため、同説が8世紀後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については裏付けがないことに注意が必要である。さらに、平安京でうまく行ったとされる山川道澤との対応付けは、江戸時代以降に主張されるようになったものであり、それが一般的な解釈とされるようになったのはようやく明治時代になってからである。

つまり、江戸時代以前の都市デザインが四神相応となるように設計されていても、その四神が山川道澤であるとは考えにくい。例えば平城京はその建都にあたっての詔勅に、「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮を作し、亀筮並に従ふ。)」とある。この「四禽図に叶ひ」とは四神相応のことであり、奈良時代には平城京が四神相応の地であると考えられていたことを確認できる。平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない。しかしそれを四神相応とする以上、奈良時代には別の解釈がとられていたことになる。また、鎌倉時代後期の詞林采葉抄では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、・・・」とあり、朱雀に「貴人金爐」が対応付けられていることがわかる。

さらに『柳営秘鑑』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記されており、『柳営秘鑑』の著者である菊池弥門にとって、江戸城は四神相応の地に建設された城郭であるが、「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな東京湾は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな甲州街道も単に西に延びているだけである。このような地形をもって、「四神=山川道澤」説に合致しているとするのは、牽強付会というべきだろう。さらに言えば、姫路城や福山城[1]、熊本城などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。

名古屋城についても『金城温古録』では、「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。『金城温古録』で語られている四神相応もまた「山川道澤」ではない。

また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、鬼門・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。そういう点で『竈門山旧記』を根拠として、竈門神社が大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に創建されたという記述から、大宰府が風水に則って作られたとする説は問題が多い。

このように四神相応の解釈は古代から近世にかけて変化していき、古代中国の風水とは異なる独自のものであったと考えられる。

2009年04月19日

ニューディール

アメリカでは1932年の選挙で、民主党のフランクリン・ローズヴェルトが大統領に当選した。ローズヴェルトは33年3月に就任するや、まず農業調整法(AAA)によって農産物の作付を制限し、過剰な農産物を買い取るなどして生産と供給を調整し、生産物価格を引きあげて農民の生活を安定させ、全国産業復興法(NIRA)で政府と企業との協力を強めて生産の制限や価格の統制、賃金引き上げなどを企業におこなわせ、企業間の公正な競争を促した。
さらに混乱した国際経済からドル経済圏をまもるため金本位制から離脱し、テネシー川流域開発公社(TVA)などの公共投資による地域開発を推進して、失業者を減らそうとした。また、1935年、全国労働関係法(ワグナー法)によって労働者の最低賃金および団結権と団体交渉権を保障した。

こうした一連の、政府の積極的な経済への介入政策はニューディール(新規まき直し)とよばれ、社会対立の拡大を阻止して、国民経済と生活を安定させようというものだった。

外交面では、1933年ソ連を承認し、ヨーロッパにおける列強の対立に対しては、公式には中立を維持した。ラテンアメリカ諸国に対しては、それまでの高圧的な態度をゆるめ、キューバのプラット修正条項を廃止するなど内政干渉をひかえ、かわりにドル経済圏に組み入れようとする善隣外交政策がとられた。

ヨーロッパの対応

世界恐慌に対して各国政府は、積極的な国際協力はおこなわず、自国本位の解決策を追求した。

アメリカとならんで、世界恐慌の影響がもっとも深刻だったドイツでも、工業生産は1929年からの3年間で半分近くに減少し、3人に1人が失業者というありさまになった。経済の混乱と社会不安のなかで、33年に成立したアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権は、軍需生産や土木工事を増大させ、フリッツ・トートを中心に進められたアウトバーンの建設などで大規模公共事業をおこして、失業者を吸収した。

イギリスもまた貿易不振と失業者の増大に苦しんだ。マクドナルド内閣は失業保険を削減しようとしたが、これには与党の労働党が反対してマクドナルドを除名した。そこで彼は、保守党や自由党の一部と挙国一致内閣(1931年 - 1935年)を組織し、金本位制の停止、国費の節約、保護関税などを実施した。さらに、1932年にはカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)をひらき、連邦内の貿易決済をUKポンドで行い、連邦内の商品は無税か低関税を、外国商品には高関税をかける帝国特恵制度の採用を決め、イギリスと各自治領が結束して関税障壁で自衛する、排他的なスターリングブロックが形成された。なお、1935年ネヴィル・チェンバレンの保守党政府が成立すると、ナチス・ドイツの反ソ的態度に期待して、ドイツの要求に譲歩する宥和政策をとった。

フランスでは、恐慌の影響が1932年になってあらわれ、政府はイギリス同様、植民地や友好国とフラン通貨圏(フランブロック)をきずいて、経済を安定させようとした。国内政局は不安定だったが、ドイツのヒトラー政権成立や国内の極右勢力の活動などにより危機感をもった中道・左翼勢力がまとまる傾向をみせた。1935年には仏ソ相互援助条約が結ばれ、翌36年には社会党・急進社会党に共産党が協力して、1936年、社会党のレオン・ブルム首相による「反ファシズム」の人民戦線内閣が成立し、大規模な公共事業を展開し、労働者の待遇改善を進めたが、政権の内部分裂もあり、経済危機をのりこえられないまま退陣した。

ドル・ポンド・フランなどの通貨を軸に経済圏をつくり、他国の商品を排除するブロック経済は、国際経済をますます縮小させ、弱体な中小諸国の経済を圧迫した。

一方、ソ連は資本主義世界との交流が少なく、世界恐慌の影響をうけずに社会主義の基礎をきずいたため、その計画経済は資本主義諸国からも注目された。しかし、スターリンは独裁的権力によって多数の人びとを根拠のない罪状をきせて粛清し、スターリンの個人崇拝を強めた。共産党の一党支配によるスターリン体制の確立である。対外的には、ソ連は国際社会への参加をすすめ、1934年には国際連盟に加盟した。

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昭和恐慌と満州事変

満州某重大事件の処理について昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が倒れた後、濱口雄幸内閣が誕生すると、蔵相井上準之助は産業の合理化、旧平価による金解禁で日本経済を立て直そうとした。しかし、世界恐慌で世界の経済状態が大混乱に陥っているときに、1930年1月11日金解禁を実施したこともあり、日本経済はまたもや恐慌に陥った(昭和恐慌)。

同年11月、濱口首相がロンドン海軍軍縮条約調印にともなう統帥権干犯問題により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じ立憲民政党から第2次若槻内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま1931年9月の満州事変の勃発により早々と倒れ、同年12月、立憲政友会の犬養毅内閣が成立した。犬養内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行し、民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、1933年にはソ連を除く他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した。

高橋のインフレ政策には、軍拡的な意味合いも含まれていたが、景況改善後の資源配分転換と国際協調の流れに併せた機動的軍縮が、のちに肥大化した軍部に阻まれることとなる。

満州事変におけるあまりにも鮮やかな軍事的成功の時期と恐慌からの脱出の時期が重なったことは、既成政党の政権争いに不信をいだいていた国民に「頼りになるのは軍部」という考えを浸透させることとなった。

しかし、その一方で日本の軍事行動は国際的に批判され、中国の提訴によって派遣されたリットン調査団は事変は自衛権の発動によるものであるという日本側の主張をしりぞけ、国際連盟もそれを支持したので、1933年3月、連盟の脱退を通告した。また円安による輸出の増加は先進諸国よりソーシャル・ダンピングだとの批判を浴び、日本は国際的に孤立の度を深めた

第二次世界大戦

日中戦争

国際連盟脱退通告直後、関東軍は熱河方面も侵攻し、同年5月の塘沽協定成立によって満州事変に一応の決着がついた。その後、1935年、防共の名目で内モンゴル・華北に侵攻し、河北省東部に分離した冀東防共自治政府(-1938年)を設置させて「北支」の分離をはかった。これに並行して一部の軍人はテロやクーデタ事件(1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件など)をおこし、政党政治は終わりをつげて、軍部の発言力を強めた。

中国の国民政府は1930年の関税自主権の回復に力をえて、国内の政治的・軍事的統一をめざし、日本の軍事行動への対応よりも共産党との戦いに力を入れた。1934年、瑞金の共産党軍は延安など奥地をめざす長征を実行したが、その過程で共産党内での毛沢東の指導力が確立、また各地で土地改革を行って支持を拡大していった。同年、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と引き替えに中国産の軍用稀少原料の提供を約束する「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」をドイツとの間で調印するなど中独合作を進めて、産業面、軍事面での近代化に努め、35年には、銀貨を禁止し、イギリス・アメリカの援助でポンドに連動した四大銀行が発行する銀行券を「法幣」(法定紙幣)とする通貨統一を達成した。これにより地方の軍閥の力は弱められ、国内統一への方向はさらに進展した。

中国共産党は、長征のさなかの1935年8月、八・一宣言を出して、内戦の停止と民族統一戦線の結成を呼びかけた。これに対し、西安で共産党攻撃を行っていた張学良が共鳴し、1936年、共産党攻撃の督戦におとずれた蒋介石をとらえて抗日と内戦の停止を訴えた(西安事件)。蒋介石はこれを受け入れ、以後、ふたたび国共は接近した。

1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまった。近衛文麿内閣は、7月9日には不拡大方針を閣議で確認、また、7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにもかかわらず、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表した。中国では、第二次国共合作が実現した。

1937年末までに日本軍は華北の要地と首都南京を占領し、その後も攻勢をつづけたが、都市および都市間の交通路を支配しただけで、広い農村地域にまで支配はおよばなかった。それに対し中国は、アメリカ合衆国、イギリス、ソヴィエト連邦の援助をうけ、政府を四川省の重慶に移して抵抗を続けた。近衛は「東亜新秩序の建設」をかかげ、欧米勢力を東アジアから追放してその覇権を握ろうと企図し、南京に汪兆銘政権をたてたが民衆の支持がえられず、戦争は泥沼化の様相を呈した。

2009年04月04日

弓取式

弓取式(ゆみとりしき)は、大相撲の本場所で結びの一番の勝者に代わり、作法を心得た力士が土俵上で弓を受け、勝者の舞を演ずることである。全取組終了後、打ち出し前に行なわれる。
平安時代に行われた相撲節会で左近衛府と右近衛府に分かれ相撲を取り、勝った方の立会役が矢を背負って、勝者の舞を演じたのが始まりといわれている(一般的に言われる「織田信長起源説」は誤り。ただし信長自身が大の相撲好きであったのは事実である)。今日の原型ができたのは、寛政3年(1791年)6月11日に横綱である二代目谷風梶之助が徳川家斉の上覧相撲で、土俵上で弓を受け「敬い奉げて四方に振り回した」ことからである。

本来は三役揃い踏みに大関として登場した2人のうちの勝者が行なっていたが、千秋楽に幕内の取組がなくなり、幕下力士が行なうようになった。なお明治以降に幕内力士が弓取を行なった記録も数例存在する。元々は千秋楽にのみ行なわれ、この場所最後の勝者を称えてのものだった。そのため千秋楽結びの一番が引分や痛み分けの場合は中止された。昭和27年(1952年)5月場所からは、毎日行なわれるようになった。

弓取を行なう力士は向正面に控えとして座り、結びの一番で東が勝てば東から、西が勝てば西から土俵に上がり、弓を振り、四股を踏む。なお、控え席には何も敷いておらず、基本的に地べたに座る(関取が弓取りを行う場合は座布団が用意されている)。弓取を行なうのは原則として幕下力士だが、特別に大銀杏を結い、化粧廻し(協会所有のものを使用、3月場所は東西会所有のものを使用)を締めて、土俵に上がる。基本的に横綱がいる部屋の力士によって行なわれ、横綱不在の場合は大関のいる部屋から選出される。

ジンクス [編集]
弓取式を行った力士は、関取になれないというジンクスが相撲界にあったが、1990年5月場所まで弓取を勤めていた九重部屋の巴富士が小結に昇進したことにより、影を潜めた。2007年3月場所まで弓取を務めていた高砂部屋の皇牙は2006年5月場所から十両に昇進した。十両力士(関取)が本場所の弓取式を務める事になったのは、1975年3月場所の板倉(後の前頭・大豪)以来実に31年ぶりの事である。一方で、元十両の秀ノ花は関取から陥落した後に弓取を務めた。

その他 [編集]
弓を落とした場合、手を土俵につくと負けとなり、縁起が悪いことから、足で拾う。ただし足の指で摘まみ上げるのではなく、足の甲に弓を乗せ、足で弓を上に跳ね上げたところを掴み取る。弓を土俵の外に飛ばした場合は、呼出が拾って、手渡すことになっている。最近では、2008年3月場所の10日目に、当時三段目で高砂部屋の男女ノ里が弓を落としてしまい、作法通りに足を使って拾い上げている。

出羽錦は栃錦の、玉椿は自分の引退相撲で弓取を行なった。

主な弓取り力士 [編集]

本場所中毎日実施後 [編集]
大岩山(1952年5月場所?1954年3月場所)
大田山(1954年5月場所?1959年5月場所)
緑岩(1959年5月場所?1959年9月場所)
十三ノ浦(1959年11月場所?1961年5月場所)
若熊(1961年7月場所?1965年7月場所)
雲仙山(1962年1月場所)
克田山(1963年9月場所、1965年9月場所?1966年7月場所)
柏錦(1966年9月場所)
栃桜(1966年11月場所?1967年7月場所、1970年5月場所)
大地(1967年7月場所?1969年1月場所)
陸前(1969年3月場所?1970年9月場所)
太光山〔大晃山〕(1970年11月場所?1973年1月場所、1976年3月場所)
岡部(1973年3月場所?1973年9月場所)
板倉(1973年11月場所?1975年3月場所)
福錦道則 (1975年5月場所?1975年7月場所、1982年9月場所?1985年1月場所)
江戸の華(1975年7月場所?1982年7月場所)
秀の龍(1982年9月場所?1983年1月場所)
香久山(1985年3月場所?1985年9月場所)
花武蔵〔小金富士〕(1985年11月場所?1987年1月場所、1987年9月場所)
鳳龍(1987年1月場所?1987年7月場所、1990年7月場所)
六甲山〔日の出富士〕(1987年11月場所?1989年7月場所、1990年9月場所)
巴富士(1989年9月場所?1990年5月場所)
秀ノ花(1990年11月場所?1991年7月場所)
北斗旭(1991年9月場所?1992年5月場所、1993年1月場所、1993年5月場所)
高見若(1992年7月場所?1995年9月場所)
高見錦(1994年7月場所)
若風(1994年11月場所、1995年3月場所、1995年11月場所?2000年1月場所)
新明(2000年3月場所?2002年1月場所)
貴ノ湖(2002年3月場所)
武蔵富士(2002年5月場所?2003年11月場所)
皇牙(2004年1月場所?2007年3月場所)
男女ノ里(2007年5月場所?)

タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ


2009年03月20日

東北本線優等列車沿革

東北本線優等列車沿革(とうほくほんせんゆうとうれっしゃえんかく)とは、東北本線・常磐線を運行していた特急列車・急行列車等のうち、青函連絡船あるいは津軽海峡線を介して本州対北海道輸送に資していた東京?青森?北海道間輸送列車と、そのほか東京対東北都市間輸送に資していた東京?東北都市間輸送列車の沿革を記載する。

以下のものについては2008年現在、運行されているものに直接言及されていることから、記載より除外する。

東北新幹線運行列車・・・当該路線項目及びはやて・やまびこ・なすのの各列車項目
宇都宮線(上野駅?黒磯駅間)区間・・・とちぎ (列車)#宇都宮線優等列車沿革
日光線直通列車・・・スペーシア#国鉄・JR東日本日光線優等列車沿革
両毛線直通列車・・・あかぎ (列車)#両毛線優等列車沿革・とちぎ (列車)#宇都宮線優等列車沿革
磐越西線直通列車・・・あいづ (列車)・白虎_(列車)
奥羽本線直通列車・・・つばさ (列車)・あけぼの (列車)
東北新幹線開業後の盛岡駅?青森駅間・・・つがる (列車)・白鳥_(列車)
大湊線優等列車・・・しもきた (列車)
常磐線優等列車・・・ひたち (列車)
津軽海峡線経由寝台特急列車・・・北斗星 (列車)・カシオペア (列車)
東北本線は、青函航路と稚泊航路を挟んだ、本州と北海道・樺太連絡の使命をも担っており、その重要性から、急行列車や準急列車などは、増発と到達時分の短縮が繰り返されてきた。

列車には、上野駅?仙台駅間で東北本線を経由するものと、常磐線を経由するものの二種類が存在した。前者のルートは急勾配区間が多かったため、宇都宮市・福島市など重要都市を抱えていたものの、蒸気機関車が牽引する列車にとって速度や輸送力(連結両数)の面で不利であった。そのため距離は若干長いが、勾配が緩やかであった後者の常磐線を経由する列車も多く設定された。ここではその両者について記す。

百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

戦前の優等列車の設定 [編集]
1906年(明治39年)4月 日本鉄道が、上野駅?青森駅間に同線初の急行列車を設定。下り列車は上野発11時45分で青森着が翌朝7時、上りは青森発が19時40分で上野着が翌日15時13分であった。
1906年(明治39年)11月 「日本鉄道」、鉄道国有法によって国有化される。
明治?大正?昭和(初期) 急行列車・準急列車などは増発・速度向上が続けられる。
1934年(昭和9年)12月 この時のダイヤ改正で東北本線経由で運転していた昼行急行の1往復と、常磐線経由で運転していた夜行急行1往復の所要時間を、前者は約2時間20分、後者にいたっては約5時間も短縮する。大幅に時間が短縮された常磐線経由の夜行急行201・202列車は戦前の東北本線を代表する列車となり、二等・三等寝台車・食堂車に加え、1935年10月からは1934年12月のダイヤ改正で東北・北海道の各線から廃止された一等寝台車の代用として二等寝台車の一角に「特別室」と呼ばれる一等寝台車に準じた設備を持つ車両(マロネ37480→マロネ38形二等寝台車)を連結した。上野駅?青森駅間を下り201列車は12時間45分、上り202列車は12時間25分で結んでいた。
1940年(昭和15年)10月 上り202列車が所要時間を5分短縮する。これは1958年(昭和33年)の、特急「はつかり」登場までの18年間破られない所要時間であった。
1943年(昭和18年)10月 この時「決戦ダイヤ」と呼ばれたダイヤ改正が行われ、急行列車が大幅に削減・速度低下する。
1944年(昭和19年)12月 東北本線・常磐線の急行列車は、すべて廃止か運休となる。

2009年03月05日

キ (中国神話)

夔(き)は、中国神話における動物、人物、または妖怪のこと。夔牛(きぎゅう)ともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。夔についての伝承は時代や地域によって大きく異なっている。

『山海経』第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという。

夔は『説文解字』第五篇下における解説では「竜のような姿をしていて角がある」とされている。また『法苑珠林』に引用されている『白沢図』によれば「鼓のようで、一本足である」という。

妖怪の夔
『国語』「魯語」に三国時代の韋昭が付した注によると、夔は一本足であり、越人はこれを山繰と呼び、人の顔、猿の体で人語を解する動物であるという。『史記』「孔子世家」では夔は木石の怪であるとされ、魍魎と同一視されている。同様の記述が『抱朴子』「登渉篇」にもある。

人間としての夔
『書経』「舜典」では、夔は舜帝の配下である人間で、帝によって音楽を司るように命じられた。夔は「私が石を高く低く打てば百獣がそれに従って舞うことでしょう」と言ったという。

『韓非子』「外儲説左下」第三十三では、夔が一本足であるかどうかについての議論が行われている。このことを問われた孔子は「夔は一本足ではない。夔は性格が悪く人々は何も喜ばなかったが、誰からも害されることはなかった。なぜなら正直だったからである。この一つで足りる、だから一足というのである」。または「夔は何の才能もなかったが、音楽の才能だけは突出していた。そのため堯帝が『夔は一で足りる』と言った」と答えたという。
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

日本の夔
山梨県笛吹市にある山梨岡神社には手がなく足が一本だけ生えている奇妙な姿の木彫があり、これは夔の神と言われている。4月4日だけ開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている。『夔神来由記』によれば、天正年間に織田信長軍が山梨岡神社に乱入したが、これを疫病によって祟ったという。

ただし、この夔神像は実際には狛犬像が大きく欠損したものであり、それを荻生徂徠が「夔ではないか」と勘違いしたのが現代にまで伝わっているのが本当のところである。

このほか、『古事記』に出てくる一本足(という読みもある)の神久延毘古の「クエ」という音は、夔の古代中国での発音kueiと似ており、関連がある可能性がある(加藤徹『怪力乱神』中央公論新社 96頁)。また水木しげるは、日本の一本足の妖怪「一本だたら」「山爺(やまちち)」と夔の類似性を指摘している(平凡社ライブラリー『山海経』解説「日本に渡った精霊たち」)。

2009年02月14日

赫炎のインガノック

 『赫炎のインガノック - what a beautiful people -』はライアーソフトが過去に発表した蒼天のセレナリアを初めとする複数の作品と世界観を共有する物語群の一つである。
 超高度に発達した蒸気文明はスチームパンク作品群に題材を求め、地名や一部の登場人物にはクトゥルフ神話の影響が見られる。また、作中には魔術や聖書に由来する用語・設定が随所に散りばめられ、シナリオライター桜井光のジュブナイル的な基本精神と共に、壮大にして謎多き作品世界を引き締める柱となっている。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

 今作はその内の『既知世界』と呼ばれる世界に存在する二大国の一方である、『王侯連合』の一都市『インガノック』を舞台とする。突如都市を襲った《復活》と呼ばれる原因不明の災厄。不可解にして過酷な状況の中でたくましくも生き続ける人々の在り方と、人間の純粋な想いが生み出してしまった悲劇。そして《美しいもの》と呼ばれる変わらない“何か”を、主人公である青年医師ギーを基点とする12の章を通して描いた同社の意欲作。
 10年前。《復活》と呼ばれる原因不明の災厄により、全てが捻じ曲げられ、異形と化した都市『インガノック』。かつてこの世の理想郷たる完全環境都市(アーコロジー)を目指したそこは、今では外界と隔絶され、都市存続を唯一至上の目的とする非情な法律と、現出したお伽噺の住人、神話の怪物達が跋扈し、奇病業病が蔓延する地獄の様相を呈していた。
 そんな中。人々に変人と罵られながらも、弱者撲滅を謳う都市法に抗い、手を差し伸べ続ける巡回医師ギー。彼は《復活》後の都市で独自に生み出された魔法にも似た超技術『現象数式(クラック)』を操る、『違法数式医(イリーガル=クラッキング・ドク)』だった。
 溢れる“死”に感情を凍てつかせ、己の身を省みず手を差し伸べても、零れ落ちていく命達。もはや使命感か義務感か、己を衝き動かすものの正体さえ掴み切れはしない。そしてまた、ギーも自身に芽生え始めた狂気を自覚していた。
『こんにちは。ギー』
 今日も幻の道化師は囁く。ギーの視界の端で踊り続ける、この十年で芽生えた狂気。
 ……しかし。その日は何かが違っていた。
『こんにちは。ギー。雑踏をよく見てご覧』
 狂気が造り出した幻に過ぎない筈の、道化師の導き。ギーは自嘲しながらも、気付けば声に従っていた。

――そしてギーは出会ったのだ。彼の、そして都市の命運をも左右する二人に。
 一人は少女。この異形都市に在りながら穢れを知らず、人が忘れた“笑顔”を絶やさぬ不思議な少女。
 一人は影の巨人。お伽噺の住人にして、都市に残された最後の希望と謳われる“鋼の人形”。

ギーが得たものとは一体? 《奇械》とは何か? 都市が忘れていた真実とは? 
 閉ざされていた物語は、少しずつ動き始める……。

異形都市(閉鎖都市)インガノック。
 湖上を埋め立てた人口土壌の上に建設された、積層型巨大構造体から成る『王侯連合』の大型機関都市。
 かつて完全環境型都市(アーコロジー)を目指したそこは、《復活》後十年を経た今ではこの世の地獄と化している。《復活》と同時に発生した《無限霧》によって外界とは完全に隔絶され、王侯連合は既にインガノックを「連合に所属しない廃墟」として定めたという。
 都市の頭頂部(全体の2%)には支配者層である上層貴族が住まう区画があり、100万に及ぶ市民が住まう残りの98%は全て下層とされる。下層は13の層プレートによって構成され、各プレートは大階段及びモノレールによって繋がれている。上層に近いプレートほど市民等級の高い裕福な市民が多く居住し、層を下るに従って生活水準は悪化していき、最下層では餓死者が出ることすら珍しくは無い。
 主人公であるギーが居住し、物語の基点となるのは第7層の第28区画にあるアパルトメントの2号室。

主要登場人物
ギー (声:竹田彬夫)
 主人公。異形化した都市で弱者に手を差し伸べ続ける巡回医。キーアとの出会いをきっかけとして、都市に残された最後の希望であり、最強の力でもある《奇械》ポルシオンの宿主として選ばれる。都市の全ての人間と同様に、《復活》前後の記憶を失っている。致命的なほどのお節介焼きであり、誰もが諦める状況でも決して患者を見捨てることはない。しかし脳変異により、食欲を感じないなどの神経構造の障害を抱えており、自身は不養生になりがちで周囲が常に心配するほど。一方この変異によって現象数式を使うことができ、医療用のものを習得して実用している。
キーア (声:かわしまりの)
 物語の鍵を握る少女。攻略対象ではない。ギーのすぐ近くに寄り添い、彼の生きる姿を見つめ続ける。直感的に人の嘘を看破し、その瞳は《美しいもの》さえ見通す。その出自や過去はプロの情報屋にも掴めず、自らも一切語ろうとはしない。ギーのアパルトメントで預かる為の名目として、“あくまでも一時的に”彼の養女となった。アティをギーの『奥さん』と呼び、そのたびにアティは照れまくり、ギーは淡々と「奥さんではない」と訂正している。混沌たる都市下層にあって、誰へも笑顔を向けることができる希有な人間である。
アティ (声:野月まひる)
 本作のヒロイン。《忌罹病》により猫や虎に似た幻想の異人種《猫虎》に変異した為に、上層を追われた過去を持つ。右眼に発現した黄金瞳の効果によって、その身は成長も老化もしなくなった。生きる為に様々な数秘機関を肉体に埋め込み、荒事に身を置く。明るさに満ちた、蓮っ葉で皮肉屋な娘。肉体はしなやかで俊敏に、爪は鋭く、精神はたくましく。でも、本当は──
ケルカン (声:越雪光)
 自らを巡回殺人者と任じる、特1級指名手配犯。『死』こそがインガノックにおける救いであると嘯き、その鎌を振るう死神。《奇械》クセルクセスを自在に操り、ことごとく対極を行くギーの前に立ち塞がる。
ルアハ (声:青山ゆかり)
 糸を失った主無き自動人形と人々から呼ばれる、鋼鉄の娘。全身を改造された機関人間。キーアとの出会いにより自我を取り戻すきっかけを得るが、その無垢なる精神はより強い感情へと次第に引き寄せられていく。
老師イル (声:なし)
 影の猫。傍観者にして、ありとあらゆるものを観測し得ると言われる幻想の異人種《観人》の老人。大きな肉球と静かな瞳、ユーモラスにして捉えどころの無い言動が印象的な人物。その知識と人格により、下層の人々から「老師」と呼ばれ慕われている。
グリム=グリム (声:真田雪人)
 ギーの視界に度々現われる、仮面の道化師の幻。時折、現実の視界や夢の視界の片隅に現れては、ギーに謎かけの言葉を放つ。
大公爵アステア (声:滝沢アツヤ)
 偉大なる碩学にして魔術師。《復活》によって壊滅寸前にまで陥った都市を復興させる原動力となった、現象数式の発見者でもあるインガノックの支配者。その一方で、都市存続の障害となる弱者の撲滅を謳う『死の都市法』を制定するなど、二面性を併せ持つ。現在は何らかの理由によって身を隠している。
レムル・レムル (声:理多)
 原初にして最強の《奇械》所有者。最も《美しいもの》に近く、そして同時に限りなく遠くに在る少年。その精神は恐怖と狂気と歓喜と至福に満ちている。大公爵アステアが3年をかけて建造した都市上層の特1級封鎖建築の最奥に閉じこめられており、生命活動以外のあらゆる活動を封じられている。一部の上層貴族からは、彼こそが都市インガノックの《復活》の理由そのものであると噂されている。

2009年01月27日

ミラージュF1の三機種までに絞られた

1968年 (昭和43年) 7月の第二次調査結果までにF-4E、CL-1010-2、ミラージュF1の三機種までに絞られた。CL-1010-2は実機が存在しないこと、ミラージュF1は導入経験のない欧州機だったことから、F-4Eの導入が最有力とされ、航空自衛隊の現場からも「F-4しかない」との声も挙がっていたという。同年11月、F-4E導入を決定し、翌年の1969年 (昭和44年) 1月10日の国防会議でF-4E (104機) の導入を正式決定し閣議了承を受けた。この時点でのF-4EJ一機当たりの価格は、20億円だった。

導入計画
当初の計画ではF-4EJ四個飛行隊分 (104機) の編成を予定したが、さらに23機を追加し五個飛行隊を編成することとなった。導入機の最初の2機はマクドネル社セントルイス工場製の輸入、続く8機分は部品で輸入し三菱重工業でのノックダウン生産、それ以降を同社によるライセンス生産と決定した。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ

しかし、1967年 (昭和42年) の国会で社会党や日本共産党などの野党の追及を受けた防衛庁長官の「周辺国の脅威になる爆撃機能 (対地攻撃能力) を持たせない」との答弁を受けて

核兵器制御装置 DCU-9/A
爆撃コンピュータ ASQ-91
空対地ミサイル・ブルパップ制御装置 ARW-77
空中給油装置
を省略した機体をF-4EJとして最終的に140機を配備した。なお対地攻撃能力はF-4EJ改への改修の際に追加されている。

機体の旧式化による性能向上が必要となったため90機をF-4EJ改に改修し一部の機体を支援戦闘機として運用している。また偵察機としてRF-4EとF-15配備で余剰となったF-4EJを偵察機に改造したRF-4EJも運用している。全世界通算での最終号機は第5航空団第301飛行隊所属の「17-8440」である。

航空自衛隊の他に海上自衛隊も第四次防衛力整備計画 (四次防) に於いて「高速哨戒機」の名目で米海軍からの提供が可能とされたF-4Jの導入を計画していたが、オイルショックによる四次防縮小の影響を受けて見送られた。

後継機
F-4EJ改の後継となる次期主力戦闘機 (F-X) の選定が防衛省にて行われており、2008年 (平成20年) 度に機種決定がなされる。候補はF-15FX、ユーロファイター タイフーン、F/A-18E/F、F-22、F-35だが、最有力候補とされるF-22がアメリカの最新鋭技術の国外流出への懸念からアメリカ議会で禁輸措置を受けているため防衛省ではF-22導入に向けF-X選定スケジュールを2009年 (平成21年) 度以降に延長している。このためF-4EJ改の運用スケジュールを耐用年数見直しの上で変更する可能性もあるとされる。

支援戦闘機型はF-2の配備を受けて2008年度末までに退役する。偵察機RF-4は偵察部隊の縮小を受けて、F-X配備後に余剰となったF-15の改修機によりRF-4Eのみ代替する。

機体
航空自衛隊では、現在までに4種類のF-4を運用している。

F-4EJ
F-4Eから対地攻撃能力や空中給油能力を除去し、スクランブル発進時の加速力を重視して他国のF-4Eの持つ空戦用スラットを省略した機体。1971年 (昭和46年) 7月25日に2機 (1・2号機) を完成輸入し、続く11機 (3?13号機) を三菱重工業でノックダウン生産、127機 (14?140号機) をライセンス生産により国産とした。1981年 (昭和56年) 5月20日に最終140号機 (#440) を納入している。
1972年 (昭和47年) 8月1日臨時第301飛行隊を編成。4号機墜落事故 (73年5月1日) による2ヵ月半の飛行停止措置を経て1973年 (昭和48年) 10月16日に同隊は臨時が取れ正式発足。その後1981年 (昭和56年) までに302から306SQまでの計6個飛行隊が編成された。1975年 (昭和50年) 11月1日より302SQに対領空侵犯措置任務が付与されアラート待機を開始した。
国産機中90機を戦力向上と寿命延長を目的としてF-4EJ改に改装し、F-15導入で余剰となった初期導入の15機は偵察機RF-4EJに改装している。改修対象外の機体は各飛行隊で標的曳航などの訓練支援や運用試験に用いられてきたが次第に運用の幅は狭まり、1999年 (平成11年) に12機を小牧基地の簡易格納庫に保管することとなった。RF-4EJを含めて退役が進んでおり2007年現在、可動状況にあるF-4EJは飛行開発実験団の1機のみとなっている。
F-4EJ改

離陸するF-4EJ改
三沢基地 (2002年)F-4EJ国産機の機体寿命延長と能力向上を目的とした改修を行った機体。1980年 (昭和55年) からF-4EJの延命・能力向上研究を開始し1981年 (昭和56年) 度に改修設計作業を開始した。1982年 (昭和57年) 2月20日に航空機構造保全プログラム (ASIP) によって改修が可能であると判断し、昭和57年度に07-8431号機を三菱重工へ引き渡し改装、1984年 (昭和59年) 7月17日に初飛行、12月13日に航空自衛隊へ引き渡された。
改修は下記の通り、アビオニクス類を中心としている。
セントラルコンピュータとしてJ/AYK-1搭載による、兵装システムの統合と空対艦ミサイルASM-1/2運用能力の獲得。無誘導爆弾による対地攻撃能力の付与
APQ-120レーダーをAPG-66J(F-16A/Bで使用のAPG-66改造型)に換装し、目標探知距離を80nmまで延伸した上、ルックダウン・シュートダウン能力 (下方低空の目標を探知・攻撃する能力) を改善
F-15J用の誘導指令装置を追加し、APG-66J搭載のみでは失うAIM-7空対空ミサイルの運用能力を維持
レーダー警戒装置 (RWR) をJ/APR-6に更新
AN/ASR-63 アナログ式慣性航法装置をデジタル式のJ/ASN-4に更新。誤差を1/3に改善
IFF質問装置AN/APX-76Aを搭載
AN/ASC-26 光学照準機をカイザー社製ヘッド・アップ・ディスプレイ (HUD) に変更
レーダーディスプレイはJ/AVQ-3
AN/ALQ-131 電子戦装置搭載能力の追加
HOTASの搭載
なお、改修時に放置した配線が原因となりM61A1 ガトリング砲を誤射する事故が発生したため後に対策が施された。
F-4EJとの外見的な差異は胴体の上に付いているアンテナがVHF/UHF無線機用に大型化され、両主翼端や垂直尾翼上端に新型RWRのアンテナが付き、コクピットの照準装置がHUDに変わった等が挙げられる。
1987年 (昭和62年) 度予算で量産改修が認められ、1989年 (平成元年) に量産改修1号機が小松基地第306飛行隊に配備、1993年までに第301・302飛行隊がF-4EJ改に改編と続き国産機のうち90機が改修配備された。なお1997年 (平成9年) のF-1支援戦闘機の減数を受け、小松基地の第306飛行隊をF-15J/DJに改編して捻出した機体を支援戦闘機 (F-2配備までの繋ぎ) として三沢基地第3航空団第8飛行隊に配備した[22] 。
RF-4E

千歳基地航空祭で展示されたRF-4E
機首部分にシャークマウスが施されている
左奥には洋上迷彩が施された第8飛行隊所属のF-4EJ改の姿も確認できる (2006年)
航空自衛隊のRF-4EJアメリカの開発した輸出用の偵察機。RF-86Fの後継機導入計画の立案段階では三菱製のF-4EJにマクドネル・ダグラス製の偵察型機首を取り付けることが検討されていたが全機完成機を輸入することになり1974年 (昭和49年) 12月3日から1975年 (昭和50年) 6月8日にかけて14機を導入した。全機が百里基地偵察航空隊第501飛行隊に配備。一部搭載機器をF-4EJ改と同じ物に替えたために非公式には「RF-4E改」とも呼ばれている。2機が事故で失われ、現在12機を保有。
RF-4EJ
事故で12機となったRF-4偵察戦力の増強のため、近代化改修の行われない初期型F-4EJを長距離撮影用ポッドが運用できるように改修した機体。1990年 (平成2年) に改造が始まり、試改修1号機 (87-6406) は1992年 (平成4年) 2月4日に初飛行した。量産改修は1991年 (平成3年) から1993年 (平成5年) にかけて行い、計15機を百里基地第501偵察航空隊が運用している。当初17機を改修する計画だったが15機時点での予算計上中断のまま実質終了となった。RF-4EJでは偵察機器ポッドを運用するため機首のM61A1機関砲を維持している点がRF-4Eとの顕著な差となっている。
15機のうち、2号機から8号機は長距離斜め写真 (LOROP) 撮影用ポッド運用能力しか持たない限定改修型、1号機と9?15号機はLOROPに加えて戦術電子偵察 (TACER) 及び戦術偵察 (TAC) ポッドの運用能力とF-4EJ改規格のレーダー警戒装置を追加したため量産改修型と呼ばれたが、後に限定改修型も3種類のポッドが運用できるように再改修された。
最近になって一部の機体が寿命を迎えたことから退役が始まった。
配備部隊
F-4EJ
第7航空団 - 第301飛行隊 (後に第5航空団に移管し、EJ改に更改) ・第305飛行隊 (F-15に更改)
第2航空団 - 第302飛行隊 (後に南西航空混成団第83航空隊に移管し、EJ改に更改)
第6航空団 - 第303飛行隊 (F-15に更改) ・第306飛行隊 (EJ改、後にF-15に更改)
第8航空団 - 第304飛行隊 (F-15に更改)
実験航空隊 (航空実験団を経て現在の飛行開発実験団、2008年現在唯一稼動するF-4EJを運用)
第1術科学校
F-4EJ改

展示されるF-4EJ改 (2008年)三沢基地:第3航空団 - 第8飛行隊 (F-2に更新中)
百里基地:第7航空団 - 第302飛行隊
新田原基地:第5航空団 - 第301飛行隊
小松基地:第6航空団 - 第306飛行隊 (第8航空団に移管し、F-15に更改)
岐阜基地:飛行開発実験団
浜松基地:第1術科学校
RF-4E/EJ
百里基地:偵察航空隊 - 第501飛行隊
誤射事故
2001年6月25日、北海道の島松射撃場上空で、対地攻撃訓練中の第83航空隊第302飛行隊所属のF-4EJ改が、ロケット弾を用いた実弾射撃訓練後に右旋回したところM61A1機関砲を不意に発砲した。約2秒間に渡って弾倉内の訓練弾188発が発射され[23]、弾丸は射撃場外に飛翔して演習地北方に位置する北広島市冨ヶ岡の北広島リハビリセンターの敷地内に着弾、施設や駐車車両に損害を与えた。
その後の調査で、EJからEJ改への改修の際に撤去されずにいた不要配線が外装板の取り付け作業のドリルによる穿孔で損傷、それがロケット弾用の配線と接触して通電したのが原因と判明した。

仕様 (F-4E)
出典: The Great Book of Fighters[24], Quest for Performance[25], Encyclopedia of USAF Aircraft[1].

諸元
乗員: 2名
全長: 19.20 m (63 ft 0 in)
全高: 5.02 m (16 ft 6 in)
翼幅: 11.71 m (38 ft 4.5 in)
翼面積: 49.2 m2 (530.0 ft2)
翼型: NACA エアフォイル 0006.4-64 ルーフ, NACA 0003-64 チップ
空虚重量: 13,757 kg (30,328 lb)
運用時重量: 18,825 kg (41,500 lb)
最大離陸重量: 28,030 kg (61,795 lb)
動力:
ドライ推力: 52.53 kN (11,808 lbf) ×
アフターバーナー使用時推力: 79.62 kN (17,898 lbf) ×
最大着陸重量: 16,706 kg (36,831 lb)
零揚抗力係数 (Zero-lift drag coefficient) : 0.0224
抗力面積: 1.10 m2 (11.87 ft2)
アスペクト比: 2.77 (翼面)
燃料容量
内部:1,994USガロン (7,549 L)
外部タンク (最大3個) :3,335USガロン (12,627 L)
性能
最大速度: マッハ 2.23 (2,370 km/h , 1,472 mph) 高度 12,190 m (40,000 ft) 時
巡航速度: 585 mph, 940 km/h (506 knots)
戦闘行動半径: 422 mi, 680 km (367 nm)
フェリー飛行時航続距離: 1,615 mi, 2,600 km (1,403 海里) 外部タンク搭載時
実用上昇限度: 62,253 ft (18,975 m)
上昇率: 210 m/s (41,300 ft/min)
推力重量比: 0.86
揚抗比: 8.58
離陸滑走距離:1,370 m (4,490 ft) , 24,410 kg (53,814 lb) 時
着陸滑走距離:1,120 m (3,680 ft) , 16,706 kg (36,831 lb) 時
兵装類機外最大搭載量:7,258 kg
武装
固定兵装:M61A1 バルカン 20mm ガトリング砲 ×1 (弾数639発)
搭載兵装
胴体下ステーション:AIM-7 スパロー ×4
主翼下パイロン (空対空ミサイル用ステーション) :AIM-9 サイドワインダー ×4
胴体中心線下/主翼下パイロン (主翼下は空対空ミサイル用ステーション以外) :核爆弾、無誘導爆弾、クラスター爆弾、テレビ/レーザー誘導爆弾、空対地ミサイル、空対艦ミサイル、対滑走路兵器、ロケット弾ポッド、ターゲッティングポッド、偵察ポッド、2271L増槽、1400L増槽等
アップグレード機
ドイツのF-4F ICEはAIM-120 AMRAAM、ギリシャのF-4Eはそれに加えてIRIS-T、F-4EJ改 (日本) はAAM-3 90式空対空誘導弾・ASM-1 80式空対艦誘導弾・ASM-2 93式空対艦誘導弾、イランのF-4はロシアや中国製のミサイルを搭載可能。